昔、妻の実家に1ヶ月ほど、長期で滞在したことがあった。出産を予定していた子供がうまくいかず、妻が精神的にかなり不安定だったため、ご両親のもとで療養することになったのだが、どういうわけか話の流れで、私も一緒にお世話になってしまったのである。そんなわけにはいかないと断ったのだが、彼女のサポートにもなるからと、押し切られてしまった。当時の我が家は妻の実家から車で5分ほどの距離で、その気になればいつでも顔を出せたのだが……。
ところで、妻は4人姉弟の長女である。ご実家には祖父母もいるので、2世帯・8人という大きな所帯だ。家は木造の平屋だったものを、子供達の成長に合わせて建て増ししたという。そんな中に私が入ったことで、やはり窮屈に感じられたかもしれない。滞在中はあまり迷惑を掛けるわけにもいかないので、なるべくおとなしくしていた。
家族は皆、日中は居間にいることがほとんどだった。それぞれ自室はあったが、寝るときくらいしか使っていない。末っ子はまだ高校生ということで、宿題やらテスト勉強やら、学生らしいお勤めもあるのだが、それもやはり居間で、しかも皆が見ているところで済ませていた。テレビが点いていようが、ラジオが流れていようが、兄弟がYouTubeに興じていようが、一向にお構いなし。よく集中できたものだ。
私が学生だった頃は、自分の部屋に閉じこもっている時間が圧倒的に多かったように思う。居間にいるのは食事やテレビを見るとき、それと家族と会話するときくらいのもので、何かしたいときは決まって自室に籠もっていた。だが、自室は概して魅力的なものに溢れ過ぎている。遊ぶことには集中できたが、勉強は今一つだった。
そして今、結婚して妻と2人、仲良く居間で過ごす日々を送っている。子供のいない家族にとって社宅は必ずしも狭くはないが、自室というものはない。逆に勉強に対するこだわりは、学生の頃に比べてずっと強くなった。仕事のこと、将来のことを案じる度に、もっと勉強しなければと感じさせられる。何かに集中するための環境は、絶対的とまでは言わずとも、やはり必要だ。
しかし、自室中心の生活スタイルは家族のコミュニケーションを奪いかねない。妻の実家に滞在して気付いたのは、居間が常に家族の会話で溢れていたことだった。自分の育った環境からは大きく乖離した、絵に描いたような理想的な家庭像がそこにはあった。
先々、建てるのか買うのか分からないが、家を持つという大きな決断を下すときが来る。そのとき、自分や家族の部屋をどのように持つかというのは、人生の在り方を想像以上に大きく左右する事なのかもしれない。
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