旅のつばくろ

新幹線に乗るという体験は、本来、魅力的なものだと思う。なぜなら新幹線は、旅を想起させるものであり、まだ見ぬ新しい世界へと連れて行ってくれる、何か象徴のようなものに感じられるからだ。

しかし社会人という切り口で見てみると、必ずしもそう感じられるとは限らない。出張の目的が退屈な社内会議だったり、過酷な現場対応ということはよくある。車窓に映る風景の印象は、時と場合で如何様にも変わるものだ。

そして、品質管理を担う私のような者は、出張の目的がクレーム処理であることが多い。クレーム処理というのは、つまり、自社製品から不良を出してしまったことに対して、こちら側の瑕疵を認め、その補償や是正に向けた対応について、得意先の了承を得ることである。

それだけでも気が重いというのに、先方の担当者がどんな人物か分からない場合が常なので、移動中は様々な想定問答を考えておかねばならない。見えない相手と対峙する不安に押し潰されないよう、気を張り詰める場。私にとって、新幹線とはそういう場である。

こんなふう書くと、ただただ辛い出張のように見えるかもしれないが、実はそうでもない。

東北新幹線には、シートのポケットに薄めの雑誌が、必ず1冊入っている。カラフルな表紙の端っこに控えめな文字で「ご自由にお持ち帰りください」と書かれてはいるが、抜き取られた後の席に座ったことは一度もない。多分、持って帰る人はほとんどいないのだろう。

毎月発行されるこの雑誌を手に取って、1頁めくると、『旅のつばくろ』というエッセイが表紙の見返しに必ず掲載されている。小説家の沢木耕太郎氏が、自らの旅のエピソードを、味わい深い筆致で描いたものだ。

出張の際、予め準備した報告資料に目を通す合間を縫って、ゆっくりと時間を掛けてこれを読むのが、私の密かな楽しみである。

沢木氏の旅は実に自由だ。目的地は決まっていても、移動手段や経由地の選び方は無計画であることが多い。思いつきに任せて寄り道し、気の向くままにルートを変える。旅先での新しい発見や出来事に身を委ねる彼のスタイルは、まるで川の流れに任せてたゆたう、一艘の笹船のようだ。

日常には無いものを求め、人は旅に出る。新しい発見のかけらを見つけたら、感興の赴くままにそれを広げ、深めていく。旅とは本来、そういうものであったはずだ。

翻って、己を見直してみるとどうか。沢木氏のエッセイに心を寄せながら、私は降車駅まで一直線に運ばれ、案内されるがままにタクシーに乗り込み、脇目もふらず目的地へと向かおうとしている。

もちろん、これは出張であって旅ではない。しかし、プライベートだって似たようなものだ。何も考えずにガイドブックから選んだ目的地へ、思い付きに任せて寄り道するようなこともなく、最も簡単かつ速い手段で行くだけの旅程を、これまで幾度となく繰り返してきた。わかりやすい目的地で、わかりやすいご当地グルメを食し、わかりやすい写真をカメラに収めて、旅をした気になっているのだ。

そんなものが本当に旅と呼べるのだろうか……。

ふと車窓に目を向けると、どこまでも続く田園の向こうに、冠雪の溶け残った山々が遠く広がっている。度重なる出張で見慣れているにもかかわらず、一度として行ったことのない場所──。

この嵌め殺しの車窓をすり抜けて、あの田圃のあぜ道まで飛んでいったら、どんな空気に包まれるのだろうか。私が乗っているこの新幹線が豪速で過ぎ去った後は、風の吹き渡る音に鳥や虫のさえずりが時折混ざるだけの、何もない静かな場所になるのかもしれない。

そして私は思い出す。ああ、「旅」はこんな身近なところにあったのか、と。「旅」をすれば、こんな何でもない絶景に期せずして出逢うこともできるはずだ。気の向くままに、自由なつばくろとなって飛んでいけば。

旅は人生を想起させる。沢木氏の旅のスタイルは、きっと彼の生き方を表しているのだろう。そして、それに憧れている自分がいることを、エッセイを通じて再認識するのだ。しかし「旅」はすぐそこにある。車窓1枚を隔てただけの、すぐ目の前に。

この出張が終わったら「旅」をしよう──。

『旅のつばくろ』を読み終えると、私はいつもそう心に誓う。そして再び、報告資料と向き合うのだが、気持ちは不思議なほどに軽くなっているのだ。

『旅のつばくろ』は最近書籍化されました。

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