僕か、私か。

私の勤めている会社では、毎年5月から6月に掛けて、上司と部下との間で面談を実施することになっている。前年度の評価や今年度の目標を確認したり、公の場では話しづらい大事な相談をしたりする、大切な場だ。

実は、面談を受ける側でなく、する側に回るようになったのは、仙台に来てからである。まだ1年半しか経っていないので、辿々しいことこの上ない。年齢もキャリアも下の相手なら別に気兼ねすることもないのだが、目上の人に対してとなると、そう簡単ではない。人生の先輩に対してドヤ顔で講釈を垂れるのも失礼だし、かと言ってあっさり切り上げる訳にもいかない。難しい問題である。

そんな中、ある特別社員の方との面談において、はたと気付かされることがあった。

その人は課長職まで勤め上げられた方で、定年を過ぎた現在も、とある業務の専任担当をお願いしている。ところが、65歳の延長期限まではまだ4年もあるのに、数ヶ月後の退職を希望されている。まだ確定したわけでもないのだが、こちらが慰留しても聞かない性格であることは分かりきっているので、普段はほとんど辞める前提で話をすることが多い。

面談の際も、残り数ヶ月の人に対してアドバイスすることなど無いことは互いに理解していたし、互いがそう思っていることもまた理解していた。したがって面談はあくまで形式的なものになったのだが、話が盛り上がっていくうちに、新米係長たる私自身の振る舞いについてアドバイスを受けるという、逆面談のような状況になってしまった。

その中で「日々の振る舞いにおいて、何か改善すべき点はありませんか」と私が問うたところ、その方は天を仰ぎながら、しばし考えた後、次のようなことを言った。

「一人称で『僕』を使っているのをたまに聞くが、あまりいい印象ではない。社会人なら『私』にしなさい。『僕は、僕は』と繰り返すと、『僕ちゃんは』と主張しているかのように映る」

改善すべき点を指摘してくれと頼んだのはこちらだが、よもやそんなことを言ってくるとは思わなかった。だからそれを聞いたとき、私は少しムッとしてしまった。

ネットメディアのインタビュー記事などを読んでいると、最近は「僕」という一人称を使っている人が増えたように思う。しかも20代の若者だけでなく、40代や50代の経験豊かな社会人が、である。だから、その指摘はいささか古臭い考えのような気がしたのだ。

しかし自分の気持ちを後々振り返ってみると、不快に感じたのはそういう理由ではなかったようにも思う。だから、条件反射的にその意見を時代錯誤だと斬って捨てるのを止め、私は冷静になって考え直してみることにした。

実は、自らの意図で一人称を変えることを考えたのは、これが初めてではない。19歳の頃、私は「俺」と呼んでいた一人称を「僕」に改めている。きっかけはよく覚えていないが、「俺」というのは何となく雑な印象があったので、何か他の言い方に変えたいと思ったのだ。

それに併せて、友人を呼び捨てにすることも辞め、君付けで呼ぶようになった。ただ、今まで呼び捨てだった友人に対して、突然「某君」と言うのは気恥ずかしかったので、新しく繋がりを得た人に対してだけにした。だから大学時代の友人は、今でも呼び捨てと君付けの両方が混在している。

今考えてみると、昔は別に「僕」で良かったのだ。大学時代はアルバイトもしていたが、基本的にはひたすら勉強と研究に明け暮れる、垢抜けない学生だった。そんな人間が自分のことを「私」などと呼んでいたら、かえってちょっと気持ちが悪かったことだろう。

しかし今、改めて「私」という一人称を使う自分を想像してみても、それほど悪い感じはしない。いつの間にか「私」という表現がごく自然な印象で使いこなせる年齢になっていたことに、今さら気が付いたというわけだ。

別に「私」だっていいではないか……。

年を重ねても「僕」という一人称を使い続けることについては、今も違和感はない。しかし、それがために「僕」にこだわる理由もまた無いのだ。あまつさえ「私」という一人称を否定する理由すらも。そこまで考えてようやく私は、その方からいただいた指摘を糧にすることができたのである。

指摘に対して不快感を覚えたのは、最初は古臭い考えを押し付けられたくないからだと思っていた。しかし、よくよく考えてみるとそうではなく、単に、極めて個人的な価値観を否定されたような気がしたから、ということだった。確かに「僕」を勝手に「僕ちゃん」へ脳内変換していたというのだから、不満に思うのは当然といえば当然だが。

それ以来、フォーマルな場においてはなるべく「私」と呼ぶようになった。ただし、友人たちに対してはやっぱり気恥ずかしいので、今も変わらず「僕」のままである。

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